ルネッサンス防府

防府JCのふるさと創生
スライド・ビデオ ルネッサンス防府 ナレーションから


 青い海の中に、弓のようにしなりながら浮かぶ三十七万平方kmの島々。日本列島の上には、三千数百の市、町、村があり、防府もその中の一つの「まち」である。

「まち」それはたとえて言えば、喜びや悲しみが渦を巻く、一つの劇場にもにている。そして「まちづくり」は、その劇場で人々がそれぞれの役を演ずる、終わることのないドラマである。

 私達は、この防府という名の劇場の中にあってこれからどんな役割を演じ、どんなドラマを作り出そうとしているのであろうか。


本当のことなのだろうか

 ある日、心静めて防府の歴史をひもとけば、それは深い哀しみに満ち、嘆きと怒りが渦巻く大地であることが、次第に分かって来るであろう。だが私達も最初は、そんなことは全く思ってもみなかった。

 ただ漠然と-「防府とは何か」というテーマを設定し、色々な角度から討議しようとしただけであった。だがそこに、予想外の意見が浮かび上がって来た。

 「防府は、経済力の大きさを誇り、周防の国府がおかれたという歴史を誇りとしている。それだけに今、山口市に中枢機能を奪われ、政治から疎外されていることへの、いらだちとあせりがある。にも拘わらず、今防府には明確なまちづくりの目標や哲学が無い…」と。

 そしてその原因についてこう説明する人がいた。それは、「防府がかって土着のリーダーをもたず、常に他国者(よそもの)の支配者や領主に、自らの豊かな収穫を提供し、その見返りに経済の繁栄を得てきたためである」と。即ち「豊かさと引き換えに、自立する心を失ってしまったからである」と。

 そして彼はこう続けるのである。「明治維新によって、大きく日本は変わった。それは民衆が主人公たる世の中の到来とも言える。しかし初めて自らのものとして手にした防府を前に、人々は、逆に拠り所を失いうろたえ戸惑わなければならなかった。

 以来百数十年、防府は今も尚その混迷から脱け出ることが出来ないままに、徒に時が過ぎつつある」と。


 これは本当のことなのだろうか。

 本当にそうなのだろうか。

 驚いた私達は、もう一度、私達のまちをその出発点から、徹底的に問い直して見ることにしたのである。


歴史は笹舟


 今、一羽の鳥となって山口県の上空に舞い上がれば、東部の、寂地(じゃくち)、羅漢(らかん)という二つの山脈を残し、中国山地が次第に背を低め、なだらかな丘陵となって響灘に尽きる。

 まさに本州の西の端である。なだらかな山に囲まれ、穏やかな入江の多い海に面し、母なる川、佐波川の流れる防府の大地がそのふところの中央にある。

 「防府」…それはかって山口県の政治、経済、文化の中心拠点としてのあらゆる条件を十分に備えていたところであった。古代において、防府に、周防の国の国府が置かれたことを見ても、すぐに分かることである。 むかし「娑婆のアガタ」と呼ばれたこの地域は、大和朝廷にとって、九州を眼の前にした重要な拠点であった。

 また防府は、海外と往来する時の重要な中継点でもあった。それゆえに先進文化をもつ朝鮮系渡来人と防府の地とは深い関係があり、「多々良(タタラ)」「牟礼(ムレ)」「末田(スエダ)」などの地名や、右田の大日古墳に葬られたとされる琳聖太子の伝説や、その子孫と伝えられる多々良氏、周防の国の国府の役人として勢力を伸ばしていった、後の大内氏の存在がそのことを今に伝えている。

 なかでも、防府にとって決定的な意味をもつのは、大化の改新によってこの地に国府がおかれたことである。

 国府は、現在の県庁などとは異なり、国家の力が直接及んでくる直轄地であった。 この中央直轄地としての歴史の流れが、その後の防府の運命を左右するものとなった。

 「歴史」それはたとえて言えば、過去の国から送られてくる「笹舟」(ささぶね)である。
私達はしばしば、歴史の中に、未来に対する重要な道しるべを見付け出すことが出来るのである。

中央直轄地としての防府

 「防府の歴史は、深い哀しみに満ちている」と言えば、あなたは驚くかも知れない。しかしその哀しみは、千数百年の遠い昔から始まっている。

防府、それは中央政府にとって、巧妙につくりあげられた支配地であった。
そのことが、決定的な姿を表わして来るのは平安時代の終りごろである。 平家によって焼き打ちされた東大寺の再建は、「後白河法皇」の発願による国家的大事業でありその「後白河法皇」の私領であった防府は、当然のことながら、その財源の対象となった。

 すなわち、1186年周防の国は、東大寺再建のための造営料国となり大勧進俊乗房重源上人が佐波川の奥地に入り用材を伐り出し始めた。

ここ
最大の政治権力である朝廷と、最大の宗教権力である東大寺の双方から直接の支配をうけることになった防府は、この時以来重い歴史を背負うことになった。

 そしてその後も、この特殊な中央支配構造の中で、右へ左へその運命を大きく揺り動かされていくのが土着としての「多々良氏」であり、その流れを汲む大内氏であった。

 一方、東大寺の造営料国にさせられたことは、まるで、高価な品物だからといって、本当の持ち主からとりあげ、それをタライ回しするようなやり方であると、地元勢力の怒りが爆発したのも当然のことであった。

 即ち、真っ先に反抗を開始したのは、筑前冠者家重、あるいは内藤九郎盛経、久米六郎国真、そして三奈木三郎、江所高信など、周防の国の地頭の面々であった。 彼らは官庫を破って食糧米を奪い、土民を集めて国衛領を奪ったり、あらゆる手段で重源上人の仕事を妨害した。

 また国衙において東大寺の力が強くなることはその中で大きな力をもっていた多々良氏即ち大内氏にとっても、おもしろかろう筈がなかった。1192年、多々良盛房の子弘盛は、用材切り出し妨害の先頭にたち、またその百年後、大内重弘は国衙に火を放ち、敵対する役人を捕えるなど激しい抵抗を繰り返した。

 私達は今現存する東大寺南大門の柱に手を当てこの柱が、佐波川から運び出されたものであることを確かめる。そして遠い昔から、防府は自分達の意志ではなく、外からの大きな力によって、操られて来たことを知るのである。

その後、周防と長門、即ち山口県の統一を成し遂げた大内氏は、室町時代に至って、防長のみならず、九州北部を制した。

更に現在の和歌山県である「紀伊国」、および現在の堺市の辺りである「和泉国」など、七ケ国を領有して、京都の将軍家と、倒幕の意図をもった激しい争いを起こす程、その勢いは、東西南北に伸びたのである。

土着としての大内氏

 ところで、現在の私達は、ともすれば、大内氏の存在がすべて山口市にあると考えがちだが、決してそうではない。

 伝承によれば、611年推古天皇19年の時、朝鮮半島百済の国の聖明王の第3子、琳聖太子が、防府の多々良浜に上陸し、彼が後の大内氏の始祖となったと伝えられている。

 大内氏の先祖多々良氏から数えて、およそ七百五十年間、彼らは防府地域に、周防の国府の役人として、大きく勢力を伸ばし、根を張っていったのである。

 だが何故であろうか、その大内氏は、1364年頃、防府から20kmの山の奥の海のない小さな盆地、現在の山口市に新たな根拠地をつくることを決心したのである。

 これが世に言う「山口開府」である。

 後世、山口開府については、大内弘世が小京都を創ろうとした為だと言われている。

 だが本当にそうなのであろうか。

 何故なら、防府は大内氏にとって祖先上陸の故地であるばかりでなく大内氏にとっての権力の根源である周防の国府のある所であり、また彼らにとっての経済力の根源である三田尻という、海上貿易・海上交通の拠点のある所である。ここから離れることは、軍事的・政治的・経済的にも、極めて不利なはずである。

 にも拘らず、大内氏は山口へ移って行った。それは何故なのであろうか。おそらくそこには、今となっては、うかがい知ることの出来ない、歴史の大きな圧力があったと、考えざるを得ない。

山口開府と分散型都市構造

 山口開府は、単に防府だけでなく、歴史を振り返れば、山口県全体の不幸の始まりであった。山口開府は、大内氏にとっていわば「滅びの都への逃避」であり、山口県にとっては今日の分散型都市構造を導いた「幻想と徒花の歴史」であったといわれる所似である。

 山口開府を成し遂げ、大内氏中興の祖といわれる大内弘世は、その後の大内氏のたどった道を、そして山口県のたどりつつある道をどのような想いで眺めているであろうか。

 また時が移り、関ケ原の合戦後、毛利輝元は徳川幕府によって防長二州即ち山口県へ押し込められた。その時輝元は、本拠として防府の桑山を希望したが、寒村の萩へ押し込められた。毛利氏は要するに、本当は防府が欲しかったのである。

山口県にも百万都市が、

もし防府が大内氏の本拠となっていたならば

 もし防府が毛利氏の本拠となっていたならば

 「広島」や「福岡」などと同じように、百万都市になっていたかも知れないのである。

防府・山口は双子の兄弟

 私達はこう考える。

 防府と山口は、一卵性双生児であった。たとえてみれば、ここに一個の卵がある。それは一つの卵の中に二つの黄身がはいっている卵である。

 それを得体の知れない何者かが、ナイフとフォークで真ん中から二つに切り離してしまった。引き離された不幸な一卵性双生児は、力を合わせることのないまま、600年を過ごさねばならなかった。そこに最も大きな、防府の、そして山口県の哀しみが横たわっている。

 もしこの一卵性双生児が、600年前から一体となって、山口県の中核都市を造り上げていれば、おそらく山口県は、日本で一番人口の少ない県庁所在地を持つことはなかった筈である。

 防府は古代から、先進的な産業技術地域であり玉造部(たまつくりべ)鋳物師(いもじ)、あるいは今日の造幣局にあたる鋳銭司(すぜんじ)もすぐ近くにあった。

 あるいは三田尻港を中心として展開されてきた海上交易の歴史は、防府の栄光と繁栄をしめしている。

 毛利重就公の三白政策による、塩田開発、新田開発は、産業都市防府のシンボルなのかも知れない。

 だが何故だろう。こうした先進的産業精神を持ちながら、防府は埋め立てた土地を、進出してくる企業に提供することで精一杯であった。

 かつてそうした現実を三田尻部の長官、揖取素彦(かとりもとひこ)は明治4年、次のように言い当てている。 

「防府の地は、海岸着船の便利良く、京師(けいし)鎮西(ちんぜい)-みやこ九州-への大道にあたり、萩、山口、の咽喉(のどもと)としての最適の商業地なるに、宮市、三田尻、両町の商人眼前の利を争いて、毫も永遠の繁栄策を講ずるなし」と。

 百数年たった今もなお、防府のまちにとって最大の敵は、その心の内部にあるのではないだろうか。

ルネッサンス防府

 今私達が歴史を振り返り、提唱しようとしている「ルネッサンス防府」とは、失われた防府の誇りと自信を、そして、自らの進む道を自ら考え、自ら行動するという自立の心を、即ち「まちづくりの志」を、私達の心の中に初めて取り戻すことである。

 いま防府の中には、本来の能力を発揮出来ず、はけ口を求めてさまようマグマのようなポテンシャルがある。しかも眠ったままでいる。それが新しい自信と誇りを持った自立の心に変わることが出来たとき、この防府は蘇り、そこから防府の平成ルネッサンス元年が始まるのである。

大内氏・毛利氏の見果てぬ夢

 そして今私達は、重要なテーマが、刻々と身辺に迫っていることを指摘しなければならない。それは外でもない。防府市新総合計画の中の基本方針として第一にとりあげられている「山口県中核都市圏構想」という、現実的・具体的なプロジェクトである。

 600年間、南と北に分裂させられた防府と山口という双子の兄弟が、今こそ一体となって、一つの目的を達成しようとするのが中核都市圏構想であるとすれば、それを支持し、完成させていくことが、私達の進むべきたった一つの道であると確信する。

 これは、大内氏、毛利氏の「見果てぬ夢」の実現となるであろう。

 今こそ私達は、新しい連帯の行動をとり、この中核都市圏構想を確実に実現していかなければならない。

 しかし、まちづくりは常に自分の足許を見つめることから始まり、市民一人一人の防府を愛する心によって支えられていかなければならない。



 今 国分寺 仁王門の前に立てば

 高く空を旋回するかのように

 木立が歴史の風をまきおこす



 そのまちの最も天に近いところに、神は降り立つという。

遠い昔から天満宮は人々の心の拠り所であった。そしてこれからもそうであろうと、参道の楠の大木は呼び掛けて来る。





 阿弥陀寺にあじさいを植え

 花の寺とすることができたとき

防府は、歴史の鎖(くさり)から解き放たれるかも知れない。


 防府は教育のまちでもあった。

 右田毛利の時観園は、おそらくは日本最初の郷土塾、「郷学」であり、萩の「明倫館」よりも、幕府の官学「昌平黌」よりも早くつくられている。

 さらに河野養哲の越氏塾。 それは養哲が、己の名利を捨て、人材教育にその生涯をかけた、まさに山口県教育の原点とでも言うべきものである。

 三田尻の英雲荘、それは山口県の中で、防府をその中心に据えたいと願った一人の藩主毛利重就公の「遺言」である。

 あるいは、かつては言語に絶する業病といわれたハンセン病に挑んだ光田健輔。彼は、この世で最も不幸な人々に対する最も神に近い存在、として慕われた、一つの光茫であった。

 「松はみな枝垂れて 南無観世音」

 現世では、乞食坊主と評されながら、死後50年たったいま、純粋な詩魂の光を放つ、俳句の「山頭火」。

 私達は、こうした人々の生き方の中から、防府の独自の心や文化を探しあてていかねばならない。

まちづくりの志

 そして私達一人一人が防府にたいする自信と誇りを取り戻し、そして自らの進む道を自ら考え、自ら行動するという自立の心、即ち「志」をしっかりと、まちづくりの中に打ち込んでいかなければならない。

 そのとき防府は、新しい山口県の担い手、中核となることが出来るのである。

 いま防府は、新たな「まちづくりの志」を得て前進する。

 母なる川・佐波川も、瀬戸の海も、山々も、彼らはみんな知っている。

 波風にもめげず、舟を漕ぎ続ければ、いつかは目指す岸辺にたどり着くはずだ。

 「ルネッサンス防府の完成」

 いつかその日は来るであろうか。

 やがてその日は来るであろう。

            〈スライド・ビデオ25分間〉

く製作スタッフ〉


構  成 松下 文二
撮  影 桜井 宏明
スタッフ 村田 雅範
永田 信明
多田 俊彦
上司誠一郎
社会計画研究所 斉藤 次男
福士 斉
伊藤 道子
武井 州一
協  力 大村印刷株式会社
指  導 臼杵 華臣
脇 正典
製作指揮 大村 俊雄

ルネッサンス防府

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電話番号:0835-22-3015